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小泉総理大臣(こいずみそうりだいじん)が 国会(こっかい)で「米百俵」のはなしをしましたね。 |
2001年5月号の「おしえて?赤十字」 |
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●明治維新(めいじいしん)のたたかい | |
江戸時代(えどじだい)から明治時代(めいじじだい)になった明治維新(めいじいしん)のころ は、日本がおおきくかわり、戦争(せんそう)もありました。 【有栖川宮 熾仁親王】1835〜1895 (ありすがわのみやたるひとしんのう) 東京都港区南麻布 有栖川宮記念公園 (大熊氏広 作) 戊辰戦争・西南戦争で政府軍の指揮官。 『戊辰戦争(ぼしんせんそう):1868〜1869年』 では、京都(きょうと)、東京(とうきょう)、会津(あいず:ふくしまけん)、 箱館(はこだて:ほっかいどう)などでたたかいがありました。 『西南戦争(せいなんせんそう):1877年』 では、九州(きゅうしゅう)でたたかいがあり、 3万人いじょうの人がしんだり・きずついたりしました。 【西郷隆盛】1827〜1877 (さいごうたかもり) 東京都台東区上野公園 (高村光雲 作、犬は後藤貞行 作) 明治維新で活躍した「さいごうさん」 西南戦争では薩摩(鹿児島県)の指揮官。 西南戦争がはじまったころは、戦争(せんそう)できずついた人をたすける国全体(くにぜんたい)のしくみがなく、 敵(てき)の兵隊(へいたい)をたすけたために罰(ばつ)をうけた医者(いしゃ)もいました。 |
2001年5月号の「赤十字たんけん隊」 |
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●米百俵の群像! | |
長岡赤十字病院のとなりの「千秋が原ふるさとの森」には、 米百俵(こめひゃっぴょう)の像(ぞう)がありますよ。 ◆◆ 米百俵のおはなし ◆◆ 『戊辰戦争(ぼしんせんそう)』のとき、長岡でもはげしいたたかいがあり、 まちは焼け野原(やけのはら)になってしまいました。 長岡のひとたちはたべものもなく、たいへんくるしんでいました。 このとき、三根山藩(みねやまはん:いまの巻町)から、おみまいの米が百俵(ひゃっぴょう)とどけられました。 これをきいた人たちは、「やっとごはんがたべられる」とよろこびました。 しかし、指導者(しどうしゃ)の小林虎三郎(こばやし とらさぶろう)は、 「この米をみんなにわけても2・3日でなくなり、なにものこらない。といって、みんなを説得(せっとく)しました。 こうして、1870(明治3)年から国漢学校や医学局、洋学校がつくられました。 国漢学校(こくかんがっこう)はさいしょは長岡駅前の大和デパートのところにつくられました。いまの阪之上小学校です。 洋学校(ようがっこう)はいまの長岡高校になりました。 長岡赤十字病院も、このときつくられた医学局(いがくきょく)がもとになっています! |
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