だい15 回 「おしえて?赤十字」 |
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●日本赤十字をつくった人:佐野常民(1) | |
- 2001年3月号 -
佐野常民(さのつねたみ)は、「日本赤十字の父(ちち)」とよばれています。 江戸時代(えどじだい:1603〜1867年)のおわりころから明治時代(めいじじだい:1868〜1912年)にかつやくした人です。 【佐野常民(さのつねたみ)】 1822〜1902(文政5〜明治35) 佐野常民は1822年に、九州(きゅうしゅう)の佐賀藩(さがはん)・早津江(はやつえ)でうまれました。 アンリ・デュナンより6さい年上(としうえ)です。 こどものころからべんきょうがすきで、江戸(えど)や京都(きょうと)、大阪(おおさか)のゆうめいな先生(せんせい)から、外国(がいこく)の科学(かがく)や医学(いがく)をまなびました。 ちょうどアメリカのペリ−が黒船(くろふね)にのってやってきたころです。(1853〜1854年) おとなになって長崎(ながさき)にかえった佐野常民は、日本でさいしょの蒸気船(じょうきせん)や、あたらしい大砲(たいほう)や、通信機(つうしんき)をつくりました。 1867年の第2回パリ万国博覧会(ばんこくはくらんかい)には、日本もはじめて参加(さんか)しました。 このとき、佐野常民も佐賀藩(さがはん)の団長(だんちょう)としてヨーロッパを旅行し、 戦争(せんそう)できずついた人たちを敵・味方(てき・みかた)のくべつなくたすける赤十字のことをしりました。 【パリ万国博に参加した佐賀藩(さがはん)の人たち】 下のまんなかが佐野常民 明治になってから、佐野常民は大臣(だいじん)になり、日本海軍(かいぐん)をつくったり、りっぱな灯台(とうだい)や博物館(はくぶつかん)・美術館(びじゅつかん)をけんちくしました。 それで、佐野常民は「灯台の父」「博覧会の母」ともいわれています。 |
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